ドーナツの穴

ドーナツはドーナツの穴に先立つが、ドーナツの穴なくしてドーナツはドーナツとは判別できない。つまりこの世は等しくまやかしであると言うことだ。

都市伝説

今年もノーベル文学賞の受賞者が発表された。

受賞したのはカズオ・イシグロ

Yahoo!ニュース

 

それはともかく、この話になると必ず話題になる人物がいる。

そう、村上春樹である。

 

村上春樹といえば必ずと言っていいほど並列して語られるものがある。

彼の熱狂的なファン、ハルキニストである。

 

と、ここで疑問に思うことがある。

そもそもハルキニストなんて存在するのか?

ハルキニストの生態としてNHKを始めとして取り上げられる有名なものは「発売日の0時を過ぎた途端、特別に営業している本屋でズラッと並んで村上春樹の新作を買う」というものだ。

その時に画面に映るのは30人ほどである。

まさか、「ノーベル文学賞が取れる」かもしれない人のファンが合計で30人ほどということなんて無いだろう。

もちろん、用事があって買えない人もいるだろう。となると彼らは、翌日の昼間以降に書店に行って新作を買うのだろう。

 

ニュースにもなる村上春樹の新作なのだから、本屋は趣向を凝らして陳列をする。

それはさながら芸術である。

そんな芸術だって、芸術として存在しているのでは無い。本として買ってもらうために陳列されているのだ。

 

しかし、だ。僕は、いまだにその芸術が欠けているのをみたことがない。

考えられる理由は2つ。書店員がこまめに補完しているか、売れていないかである。

前者は簡単に否定できる。店内に村上春樹の新刊を手に持っている人物がいないのである。いつだってそうだ。

後者は書店員ならざる僕には窺い知れないことである。

 

だから僕はハルキニストなんてカンブリア紀の海くらいにしかいないのではないかと思う。

それが現代まで残っているなんて、くだらない、メディアによって創造された都市伝説である。

メディアの仕事

「メディア」の目的とは何だろうか。

情報を多くの人に伝えること? それは違う。手段だ。

メディアの目的とは、利益を出すこと。一円でも多く稼ぐこと。

そのために必要なことは何だろうか。

視聴率を取ること? それは過程だ。

必要なことは、スポンサーからお金を出してもらうこと。

 

つまりメディアとは、法に反しない限りのことをし、情報を用いて利益を追求する集団だ。

 

だから、今回の海老蔵の件でメディアがとった行動は理にかなった正しい行動だ。

だが、特に今回は多くの人から叩かれている。何故か。

小林麻央が若かったから? ガンだったから? 

これらが原因で原因で海老蔵に同情し、メディアを叩いているのであれば、むしろそれこそメディアが海老蔵宅に押しかけることより悪質であると言わざるを得ない。

 

メディアを叩く彼らは本人の過去のブログを引用してきては「こう思っていたんだ。泣いた」とツイートし、わかった風に「そっとしておいてやれ」ともツイートする。

そんな彼らは、要するに「若くして病で亡くなった」と言うある種の悲劇を楽しんでいるのである。悪質な自慰行為とさえ言えよう。

もちろんここで言う「楽しんでいる」と言うのは興奮する、ワクワクすると言う意味ではない。「享受する」あたりが言い換えとしては妥当だろうか。

 

楽しいと感じるのは、感性によるものだ。感性とはタチが悪いもので、人間が制御できるものではないし、だからと言って簡単に把握できるものではない。

だから彼らは今回のメディアの理性的な行動を感性で、無自覚で批判する。

それは実に気味の悪い光景である。

 

【補足1】

メディアのとった行動を批判すると言うことはどう言うことか。簡単に言うとこうだ。

自分が勤める会社がある日いきなり会社経営に一切関わらない人々からこう言われるのだ「あ、お前の会社、今日から利益出すこと禁止な」

 

【補足2】

今回のことでメディアの行動を叩ける人と言うのは、最近であれば少なくとも野際陽子渡瀬恒彦の時にも同様にメディアを叩いている人である。

 

【補足3】

何か言葉が足りない気もするが賢明な読者諸君なら補って読んでくれるだろう。

 

【補足4】

敬称略

【短編小説】ゾンビ技術とかなんとか

 

 

 

 

 

積極的な延命治療を希望しない尊厳死を肯定することを定めた通称、尊厳死法と言うものが国会で議決されたのは何年前だったろうか。それまで独断で尊厳死を認めた医者が殺人罪で訴えられることも多く、医者の減少の一端にもなっていたと言われる。

この法案を通した当時の与党は優秀であったと言えるだろう。だが、与党が優秀だからと言って、野党までも優秀だとは限らない。当時の野党は、野党たる責務を勘違いしていた。

「とりあえず与党の意見を反対しておく」

それが当時の野党の掲げる理念であった。

で、その理念はもちろん尊厳死法にも適用された。まあそれだけなら悪いと言われることはなかっただろう。だが、この野党は無能なのだ。彼らが何を言ったのか。国民の代表たる彼らが言い出したことは、国民が一人として想像していないことだっただろう。

「尊厳を持って死ぬことを認めるのならば、尊厳を持って生きることも認めるべきだ」そんなことを言い出したのだ。

与党と野党の勢力が拮抗していた当時、それは受け入れられてしまった。

その結果、生に執着する一部の金持ち達が我先にと尊厳生を行い始めた。

尊厳生とは何か。まず肉体の老いを超越すると、脳以外を全て機械化した。

まあそれは良かった。一昔前であれば人と同サイズのヒューマノイドなどまともにうごかせなかったと言われているが、技術は進歩しており、会社の受付などはスタンドアローンの等身大ヒューマノイドが行なっている時代だし、見た目も人間と区別できない。違いと言ったらせいぜい襟足に緊急充電用のコネクタがある程度だ。だから技術的な心配もなかったし、社会にもなんの問題もなく受け入れられたし、繰り返されることによってコストも下がり、機械化による尊厳性は広く社会に浸透し始めた。

法案が施行されて初めの20年は問題もなかったと聞く。だが、今はこれが社会問題とかしている。

当時誰も思い至らなかった問題点が、時間経過によって判明したのだ。

そう、人の脳には活動限界があるのだ。それは、たとえ医学が進歩しても変わらないと1世紀以上前から言われていたことだ。

で、法案施行で真っ先に体を機械化した人たちの脳が限界を迎え始めてしまったのだ。

「限界を迎えたら死ぬのではないか?」

普通ならそう考える。当たり前のことだ。だが実状は違うのだ。

尊厳死が「延命治療をせず、ありのままで死ぬ」であるのに対し、

尊厳生は「延命治療して、姿形を変えてでも生き続ける」なのだ。

だから尊厳生を選択した人物の脳は限界を迎えても死なない。より適切に言うのならば、『死ねない』

だから死んでいるのに死んでいない。そんな人々のことを、誰が呼び始めたのだろう、どこかの宗教の動く死体の名前を用いて『ゾンビ』と呼んだ。

 

尊厳生は生を選んだのだ。だから、たとえ脳が寿命を迎えていても、外的要因によって死ぬことはまずないし、殺すことも法制度上不可能だ。それに、たとえ脳が死んでいても自主性なく体は動く。体が動く以上、尊厳死法以外の法律に照らしてもそれは「文句なく生きている状態」になってしまうため、家族が代理で尊厳死を選択することもできない。秩序なく動き回るゾンビは、今や社会問題なのだ。それでもゾンビが秩序なく行動するだけで、大きく法を逸脱するような行為をしないのは、せめて幸いと言うべきなのかもしれないが。

 

尊厳死法を成立させてから何度か与野党は入れ替わっているが、今は当時と同じだ。

ゾンビが社会問題になっているから、尊厳死法から尊厳生の部分を消そうと与党が主張しても、自分たちのミスを認めたくない野党が必死にそれを阻止している。

議員の中にもゾンビになってしまった者もいる有様だ。

 

なかなか修正法案を通さない野党にしびれを切らした若者が、ゾンビに襲いかかり殺害すると言う事件もあった。

殺人罪で起訴されたその若者は、検察も、弁護側も、一応裁判をやっただけで、当然無罪になるだろうと思っていたが、実際は違った。その若者は死刑に処された。

理由は公にはされていない。巷では「見せしめだろう」程度の噂にしかならなかったその事件の真相は、まさしく「事実は小説よりも奇なり」と形容するにふさわしい。

本当の理由は、裁判官が尊厳生をを選択した人物であったこと。その裁判官は、何年後かに自分が殺されることを恐れたのだろう。だから、若者を極刑に処した。

それだけなら、まだ法務大臣の執行命令で止めることもできただろう。だが、法務大臣も尊厳生で機械化していたのだ。だから、若者は死刑に処されたのだ。

 

死んだ者を殺して。殺した者が死刑になる。この一見成り立たない文章が成り立ってしまった。

 

 

こんな文章を成立させる法律の文章を削除する。それだけのことができないのだ。野党にはもっと、野党のなんたるかを考え、そして物事の本質を見据えて行動してほしい者だ。自分のミスを隠して、相手ばかりを批判する。幼稚園児ではあるまいだろうに。

 

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

 

 

 

 

 

 

きれいな日本語

 

事の起こりは少し前、北野天満宮の学業成就系の鉛筆を見たときだ。

 

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな

 

言わずと知れた菅原道真の名句。だが、僕はこの歌は美しくないと思う。大鏡に記されたこの歌の別バージョンの方が、もっときれいだ。

 

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ

 

前者の「春を忘れるな」と言う単純な禁止よりも、後者の「春を忘れないでください」と言う丁寧な禁止の方が歌の情景にもあっているだろう。

 

と言う事できれいな日本語について考えて見た。

 

先にも述べたようにきれいな日本語は4種類に分類されるだろう。

 

1 文法的にきれいな日本語

これは読んだ時にやや不自然かもしれないが、文法上は間違いのない日本語。古文の逐語訳なんかをするとこうなるんじゃないかな。

 

2 言葉遣いがきれいな日本語

説明不要だろう。ですますであったり、敬語であったりと言うものだ。

 

3 詩的できれいな日本語

三好達治の詩、『首途』の一節を引用しよう。

 

ひとしきり咳をして 薔薇の花ほど血を吐いて

 

ぶっちゃければこの散文詩、「薔薇の花ほど」なんて言わなくてもいいのだ。「たくさんの」で事足りる。けれども薔薇の花で形容する。きれいな例え方だ。

これには先に述べた「東風吹かば」も当てはまる。

 

4 音にしたらきれいな日本語

簡単に言ってしまえば鼻濁音などだ。これ以上の説明はない。

 

 

と4種類に分類したい。

 

1と2は理性的なきれいさ、3と4は感性的なきれいさだ。

これらは独立しているが、どれも日本語と言う言語には重要な要素だ。

マリオランの失敗

マリオランがどうして今までのマリオより安い1200円なのに主に学生層から文句を言われるのかと言うことを考えてみたい。

要因はズバリ一つ。1200円であること。

それが初歩的にして最大の問題だ。

iTunesカードは最低価格で1500円。500円×3枚を複数人でシェアしても1000円では1200円のマリオランを購入できないので無視する。

1500円と言う価格において、1200円に抵抗のある学生などの層には、1000円+500円の大台に乗ると言う感覚が出てしまう。

それに1500円ではマリオラン買うと300円あまる。

あまったからと言って、その300円を適当なゲームに課金しようにも、ゲームの課金はappleレートで単価120円だしその次は360円か480円。大抵120円の課金ではガチャの一回も回せない。それを買う気にはならないし、買ったとしても使えない60円が生まれてしまう。それに学生層には、僕には理解できない無課金を尊ぶ文化もある。

この1200円に悩む人は大抵が先に述べたことも理由として、日常的に課金しない人だろう。

となると「次の機会に60円を含めて使う」としても、その「次」はなかなか訪れない。

となるとやっぱり1200円を払う、即ち1500円分のiTunesカードを買うことすらためらってしまう。だから買われないし、不満がでる。

そういうことだと僕は考える。

ストライカーユニットに足を入れた後、引き抜いたときに出てくる足は入れた本人の足か?

要するにそういうことだ。

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ここでは実際にどうなのかを考えてみたい。

 

では早速。

おそらく『本人の足である』を選んだ人は何も考えずに「足を突っ込んで出したのだから本人の足だろ」という程度だろう。だが、水に足を突っ込んでも、出てきた足が同じ足であることなど証明できないのだ。

『本人の足ではないと断言はできない』を選んだ人も、上記に加えて「まあ、こうやって聞いてるんだから単純なことじゃないんだろ」程度だろう。

おそらく『本人の足だとは断定できない』も同じだ。

 

僕の考えとしては『本人の足ではない』だ。

 

ストライカーユニットでの足の処理としていくつか考えられる。

  • 1、入れた時の足を切断、保存しておき、同じものを抜いた時に繋げ直す。
  • 2、異空間との間でも連結は保たれており、ただそこに存在していないだけ。
  • 3、「異空間」という名前のストライカーユニット内部の物理的空間に収まっている。
  • 4、入れた時に足を切断し、抜いた時に瞬時に再生している。
  • 5、そもそも足なんてものは存在していなかったのだ。

 

最初にあげた画像によると『異空間に収納する技術』とある。

よって、4番は考え辛い。

また、5番は僕の扱える範疇にない。

 

1番だった場合、体にとっての<自己>とは、「常に生命活動により変化している<自己>」であり、足にとっての<自己>とは、「ある点で切り取られた変化しない<自己>」である。

この二つは排反である。

つまり、両方とも<自己>と認めることはできず、一方を<自己>と認めれば、他方は<非自己>である。

よって1番であれば『本人の足ではない』

 

2番だった場合、収納しているのは『異空間』である。『異次元』と書かれなかったということは同一次元のどこかなのだ。

つまり何かしらの手法で体と足を接続しているのだが、ウィリアムズ博士の実験でもわかるように、物理的につながっていても少しの動きで壊れてしまうのだ。だのにネウロイと戦闘をしても問題ないのだから、これは考え辛い。

 

3番だった場合、文句なく本人の足である。だが、そうだとしたらわざわざ「異空間に〜」という説明をする必要はないのだ。

 

だから、『本人の足ではない』のだ。

そうは言っても、どれもこれも「魔法があるから」と言われれば敵わないのだが、僕は次の作品辺りで魔法を疑ってストライカーユニットの使用に否定的なウィッチが登場してくれないかな?なんて思っている。

(おいそこ!「魔法力疑ってたらウィッチになれない」とか言わない!)